江戸時代から明治にかけて、北前船が日本海航路によって物流を担っていた頃。
当時の能代は、銅の積み出し量が日本一で、能代から運ばれた銅は国際通貨として流通していた3分の1から半数を占めたといわれています。
北前船の時代が終わりを告げるまで、秋田には、いくつもの鉱山による繁栄が起こり、技術や人材、知見の集約と、鉱業文化が蓄積されました。
秋田の鉱山といえば、まずは、阿仁鉱山の銅が有名ですね。
阿仁川から米代川を舟で下って能代港へ運び、北前船で大坂(当時は坂)、長崎へ。
そこからオランダへ渡り、日本の銅を使ってオランダは世界で覇権を争ったのだといいます。すごいお話ですね。秋田ってグローバル!
もともと金山として発見された阿仁鉱山は、その後、銀や銅が産出されるようになり、1716(享保元)年には銅の産出量が日本一になりました。多い時には幕府御用銅のおよそ半分が阿仁鉱山から産出されたものだったそうです。
一説には、752(天平勝宝4)年に開眼供養を行った東大寺の大仏にも、阿仁の銅が使われたとも云われています。
知れば知るほど、なんだか、すごい!秋田の鉱山!
1773(安永2)年には、精錬指導のために秋田藩が、平賀源内を招いています。
そうです、エレキテルや解体新書で知られ、角館の小田野直武を見出し秋田蘭画一派を生み出した、江戸の大天才・平賀源内。
銅山の技術指導に訪れた平賀源内は、秋田の仙北市西木町で「上桧木内の紙風船上げ」の幻想的なお祭りを伝え残したともいわれています。
その後、角館以降の足跡が定かではない平賀源内。
これは想像ですが、雄物川方面へと川を下り、北前船に乗った可能性も考えられるかもしれませんね!
さらに、秋田の鉱山の繁栄は続きます。
江戸時代も幕を引こうという1861(文久元)年に発見された「小坂鉱山」。
それまでも秋田藩が鉱山の開発運営に力を入れてきた背景もあり、当時南部藩が治めていた小坂鉱山は明治時代の近代化の息吹とともに躍動するのです。
日本鉱業界の父といわれる大島高任氏や、技術的リーダーとして活躍したクルト・アドルフ・ネット氏、その後を受け継いだ藤田組などの尽力により、その後の小坂鉱山もまた日本一の鉱産額を誇りました。
こうして秋田でいくつもの鉱山が繁栄した時代、北前船や大阪商人との関わりもまた深かったことは間違いありません。
さて、そんな秋田の鉱山による繁栄を垣間見ることができるのが「旧小坂鉱山事務所」。
ルネッサンス風の外観、バルコニーの高貴な佇まいと施された繊細な意匠、格調高きドーマーウィンドウ、館内にある螺旋階段の優美で気品高い曲線と存在感。
どれをとっても、当時の技術の粋の結晶であり、芸術的・文化的価値に満ちた歴史的文化遺産として、その時代感を伝えています。
まさに必見の価値あり、ですよ!
【旧小坂鉱山事務所】
鹿角郡小坂町小坂鉱山字古舘48-2
Tel.0186-29-5522
営業時間:9:00~17:00
休館日:年末年始
イベント名 | 【北前船が遺したもの】世界の覇権争いに使われるまで繁栄を極めた秋田の鉱山文化を伝える「旧小坂鉱山事務所」 |
メガネライター。編集者。構成作家。東京生まれ、青森育ち、秋田市在住。東北地方有数の港町である八戸市で、潮の香りと山背を感じながら育ったため、海や海風、潮の香りがあると心が安らぐ。昨年の「海と日本PROJECT」では秋田県内の海沿いを取材にまわり、海に関わる方々の「懐の深さ」と「器の大きさ」に感動。
この取材をきっかけに、夏は子連れで海のイベントをはしご、すっかり海が好きになってしまいました。秋田の海最高!
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